日光東照宮建設に関わった職人たちのその後

日光東照宮は、17ヶ月の工期を経て完成しました。その建設に関わった数多くの職人たちは、故郷へ戻り、また新たな職を求めて江戸へ行ったでしょう。それらの職人たちの影響により、建築彫刻は大きく変わったと言われているのです。

折しもその頃、江戸は公儀や諸大名による建築ブームであったと言われています。そのころ建設された大名屋敷は、東照宮を真似た、数多くの装飾を施したものが急激に多くなったと言われているのです。

また徳川家にゆかりのある、松平家などの大名が、日本の各地で東照宮を作ったり、家康を祀る神社を作ったりということも、その頃盛んに行われました。それらも日光東照宮と同じように、装飾豊かなものとなっていったと言われています。

日光東照宮の建設に関わった職人たちは、それらの建設に当然のこと関わることになったでしょう。そして職人たちは、日光東照宮の素晴らしさを、口々に語ったのではないでしょうか。「日光を見ずに結構というなかれ」という言葉も、この頃生まれたと言われています。

このような形で、日光東照宮が建設されたということが、全国各地の建築物に、大きな影響を与えたと言われているのです。日光東照宮は、その後の日本の建築彫刻の、方向を定めるものともなったと言えるのかもしれません。

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日光東照宮への狩野派の関わり

江戸時代有名だった、建築美術の大専門家集団といえば、狩野派です。狩野派は多くの建築物の、襖絵や天井絵などを担当していますが、日光東照宮の建築彫刻の記録には、狩野派が関わったという証拠はありません。実際のところはどうだったのでしょうか。

もちろんこれは、今となっては確かめる方法もありません。しかし日光東照宮について、全体のイメージを狩野派が描いたと考える人はいます。狩野派が、それまでの平面的な、画のような建築彫刻ではなく、もっと立体的な建築彫刻のあり方をデザインした。狩野派は東照宮の建築彫刻の下絵を書き、それを彫物師たちに渡したと言うのです。

日光東照宮の建築彫刻の棟梁は、甲良豊後守宗広という人で、この人はいくつかの小規模な建築彫刻をそれまで製作していましたが、東照宮のようなきらびやかな彫刻に囲まれ、極彩色に塗られた中国風の建築美術を、構想することができなのかどうか、疑問を持つ人もいるのは確かです。狩野派がそこに裏で関わったと考えると、納得が行くというのです。

日光東照宮という、建築彫刻を考える上で記念碑とも言える建築物。それがどのように建設され、細部が装飾されていったのかという謎。考えれば考えるほど、興味深いことだと言えるでしょう。

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東照宮の建て替えと建築彫刻

日光の東照宮は、建築彫刻の代表的なものとして知られています。今日でも、東照宮の彫刻は素晴らしいものとして多くの人に愛されていますが、それが実際に建設された当時、東照宮が建築彫刻に与えた影響は、今日の人達が考えるよりはるかに大きなものであっただろうと言う人もあるのです。

1616年に東照宮が造られた当初は、装飾はあまり施されておらず、いくつかの彫刻が置かれている程度のものだったと言われています。この時の東照宮の彫刻は、すべて大工が彫ったものでした。この頃はまだ、彫刻師と大工は専門化しておらず、大工が彫刻師を兼ねてもいたからです。

ところが1636年に建て替えられた時には、東照宮は現在のような、華美な建築彫刻に飾られた、壮麗なものとなったのです。江戸幕府の基礎がかたまり、家光が東照宮を、家康と祀るための宮とすることを決めた時のことです。

彫刻を専門とする彫物大工は、この頃誕生したと考えられています。実際の資料により彫物大工が確認されるのは、1690年に東照宮が大修理された時の記録からです。その時の記録に、彫物大工数人の名前が上がっています。有名な彫り物大工左甚五郎の伝説も、この頃に生まれたと考えられています。

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建築彫刻師たちの偶像

建築物の様々な場所に置かれる木彫刻を見る時、多くの人が、その彫刻を、鑿をふるいながら製作する彫刻師の姿を思い浮かべることでしょう。多くの建築彫刻は、建物を鑑賞する人から目の触れる場所にあるものですが、中には全く人目に触れない場所に、彫刻が置かれている場合もあるのです。

それが構造的に、建物を支えるようになっているとでも言うのなら、まだその存在は理解できます。しかし構造的にも必要でない場所、しかも人の目に触れない場所に、彫刻が置かれていることがあるのです。

それはおそらく、彫刻師の遊び心だったのではないかと考える人があります。彫刻師はその建物をあとから見る人のためでだけでなく、自分のためにも、彫刻を作りたかったということなのかもしれません。

江戸時代、関西の彫刻師たちは、「江戸へ行ったら波を彫るな」と言われたと言われています。それはまたの名を「波の伊八」とまで言われた武志伊八郎信由が、千葉にいたからです。有名な葛飾北斎までもが、伊八が彫った波に触発されたと言われています。

他にも数多くの、建築彫刻の達人たちがいました。彼らはそれぞれが腕を競い、しのぎを削りながら、建築彫刻の世界を奥深くまで極めて行ったのでしょう。

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見落としがちな建築彫刻

日本に古くから伝わる建築物を鑑賞しようとする時、これまでは建物の全体を眺め、その壮麗な様子や雰囲気を味わうことが大事であると、当たり前のように言われてきました。もちろん建築物の全体も大事なことですが、建築物には別の鑑賞法もあると主張する人もいます。

その建築物の中に足を踏み入れ、細かなところをながめてみましょう。柱や軒下。よく見てみると、たくさんの建築彫刻があるのです。

建築彫刻でよく題材とされるものとして、龍があります。龍などどれでも同じもののように思えるかもしれませんが、よく見るとそれぞれに特徴があり、違いがあると言われています。

日本で絵に描かれ、彫刻として彫られる龍の爪の数は、ほとんどが3本です。ところがこれが、中国では5本、朝鮮では4本だというのです。

実は龍の爪の数には、日本と中国、朝鮮で、それぞれ歴史的な意味があると言われています。その他莫や鳳凰など、建築彫刻でしばしば目にすることができる想像上の霊獣も、それが彫刻として建物に置かれるという時に、それぞれに意味があることが知られています。

建築彫刻はこのように、建築物を鑑賞する時につい見落としてしまいがちなものですが、探求してみると奥深い、興味の尽きぬ世界があると言えるでしょう。

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